駅と港の町
ブログでは塾と関係のないことのみを書いています。
本当にたいしたことは書かないので 御用とお急ぎでない方、
特に、お暇で気が向いた方にお読みいただければ幸いと書く次第です。
知~らない ま~あ~ち(町)を 歩いてみ~た~い♪
どこかと~お~く~(遠く)へ 行~きい~た~い♪
というのは作詞永六輔、作曲中村八大、
往年の名コンビ、六八コンビの名曲「遠くへ行きたい」という歌でございまして。
自宅から仕事場までがごく近く、職住近接という環境のなせる業か、
はたまた生来の落ち着きのない多動気味の性分ゆえか。
時にこの歌のような心持になってしまうのであります。
そういうわけでありまして、
今年の夏も一人でふらふら旅してまいりましたというお話で、
毎度ではございますが、本日もお付き合いのほどよろしくお願い申し上げる次第であります。
敦賀へ行ってまいりました。
日本海に面した港町、福井県の敦賀です。
何の計画も準備もない思い付きの放浪でありしたがゆえ、
例によってお付き合いいただける道連れはなく、
一人ぼっちのボッチ旅であります。
何の準備もなくとはいえ、とりあえずの目標はありました。
北陸へ行こう。
名古屋から岐阜県を縦断して北陸まで行ってみようとそこまでは決めていました。
北陸へは関越や上信越を通って新潟へ、
あるいは滋賀県琵琶湖沿いに北上して北陸へというルートはでは行ったことがあるのですが、
岐阜県を縦断、尾張の国から美濃・飛騨の国を経て北陸へは行ったことがなかったので、
このルートで北陸を目指します。
とりあえずの目標は飛騨の国、合掌造りの村でおなじみ白川郷と決めナビをぽちっとなであります。
新東名は実に快適でありまして、車線も多く道幅も広い、
トンネルが多めではありますがその代わりカーブが少なく直線の多い走りやすい高速道路であります。
私のボッチ旅の楽しみの一つが、移動中に先々の地元ラジオを聴くことであります。
静岡のラジオでは清水エスパルスやジュビロ磐田の細かな細かな情報が、
「当然、皆さん気になってますよね?」というテンションでお話しされますし、
愛知のラジオでは、山本昌さん(元中日ドラゴンズ投手)のラジコン好きを、
全ての聴取者の間で共有されていて然るべき基礎情報としてお話が進みます。
地元ではない私はそこここに若干の違和感を感じるのでありますが、
この違和感こそが、私にとっての旅情となるわけであります。
そんな感じでのんびり白川郷へ、合掌造りの村々を見学しました。
白川郷からは、快適な高速道路から一転、
白山白川郷ホワイトロードという恐ろしく険しい山道を越えて加賀の国へ、石川県小松へ出ました。
自動車の町小松では日本自動車博物館に立ち寄り、
自分がかつて乗っていた愛車が展示されていて時の流れに少し複雑な気持ちになったり、
一向一揆歴史館という道の駅併設の地元感、手作り感満載の歴史館で、
他国と比べ独特な、加賀、越中の戦国時代のお話を伺ったりして、
クルマで移動し続けの一日を福井市のビジホで終了です。
翌日は帰り道。ちがうルートで帰りました。
福井から西へ、琵琶湖の東側を下って名古屋へ抜けて帰宅です。
歴史好き、戦国時代好きの方にとってはピンとくるものがあるルートかと思われますが、
これは「金ケ崎の退き戦」で知られる信長軍の撤退ルートであります。
名門朝倉氏の豊かな越前をわがものにと兵を挙げた織田信長ですが、
妹婿の浅井長政に裏切られ敗戦。敗走して尾張に逃げ帰ったルートです。
退き戦といわれる撤退戦は難しい戦いで、
特にその最後尾を守る部隊は全滅必至の危険な任務です。
これを殿(しんがり)と申しまして誰もやりたがらない。
それはそうでしょう、負け戦となれば誰だってできるだけ早く逃げたい。
しかしこの難しい最後尾の殿を進んで引き受け、見事本隊を逃がし、また自分も生還したのが
木下藤吉郎のちの豊臣秀吉であり、盟友徳川家康でありまして、
この功績で秀吉は出世の足掛かりをつかみ、家康は信長からの終生の信頼を得たという、そんな戦でありました。
そんなわけで、まずは金ケ崎です。
金ケ崎は福井県敦賀市にあります。
金ケ崎古戦場を訪れました。しばし往時をしのびます。
戦国の三英傑、信長、秀吉、家康もこの眺めを見たのかなあと。
小高い丘から静かな海が見えます。日本海の穏やかな海でした。
さて、古戦場をあとにして、町で食事でもと駅前通りへ行くと
何やら不思議なものがアーケードにあります。
メインストリートに1ブロックごとにひとつづつオブジェが設置されています。
これは素通りはできません。
私は松本零士の大ファンです。
まあ、私に限らず私たち世代で彼の影響をまったく受けていない人もそう多くはありますまい。
通りに点在するオブジェは写真のアナライザーだけでなく
古代進、森雪、沖田艦長、スターシャ・古代守夫妻も真田さんと思しき人も。
999からは鉄郎、メーテル、車掌さんトリオも、ハーロックのわが青春のアルカディア号もありました。
世代でない方にはなんのこっちゃだとは思いますが、
私たち世代にとっては錚々たるメンバーのオブジェが並んでいます。
松本零士と敦賀。出身地でもないし、何かの作品の舞台にもなっていないと思います。
私の中でつながりません。
俄かにここ敦賀という町に興味がわきます。
なぜ?敦賀に松本零士?
こういうときは地元の図書館か博物館です。
スマホで検索、ごく近くにありました。敦賀市立博物館を訪問です。
博物館で私の疑問をたずねてみました
「何で松本零士なんですか?あのオブジェは?」
丁寧にご説明いただきました。
あのオブジェは1999年に敦賀港開港100周年記念で設置されたものとのこと。
敦賀は港町、「船の町」であり、鉄道敷設も早く「鉄道の町」でもあり
また、発電も早くから充実して「科学技術の町」でもあると。
船=宇宙戦艦ヤマト、鉄道=銀河鉄道999、科学技術=SFということで
松本零士作品のオブジェで街を盛り上げようと、そういうことでした。
大いに納得です。最高の人選だと思いました。
さて、ここは市立博物館です。
敦賀というとても興味深い町のことをたくさん教えてくれます。
教えてくれる人もたくさん。楽しい時間になりました。
とても興味深く面白い発見がたくさんあったのですが、
最も印象的だったのは「欧亜国際連絡列車」でした。
1912年(明治45年)開業です。東京発神戸行夜行に連結された車両は、
長浜で切り離され敦賀へ、敦賀から連絡船に乗ってウラジオストク(ロシア)
そこからシベリア鉄道でヨーロッパへ、終点はパリ(フランス)でした。
東京発パリ行き。そんなチケットが明治にあったとのこと。
1912年といえば、日本人が初めて参加したオリンピック、
ストックホルムオリンピックが開催された年でもあります。
数年前の大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」でいえば
嘉納治五郎(役所広司)率いる、三島弥彦(生田斗真)、金栗四三(中村勘九郎)たった二人の選手団も
このルートでストックホルム(スウェーデン)へ行きました。
当時、まだ飛行機は一般的ではなかったので、外国への旅はもっぱら船旅でした。
船旅であれば40日ほどかかったヨーロッパへの旅が、
敦賀経由の鉄道と連絡船の旅だとわずか17日ほどだったそうです。
どれほど先進的なことだったかと感嘆です。
出発前、敦賀に行こうとは思っていませんでした。
敦賀で松本零士や嘉納治五郎を想うなんて想像もしていません。
でもこれがボッチ旅の醍醐味です。
目的をもって、目標に向かって着々と準備を進める日々というのは、日常の生活では大切ですが、
ボッチ旅の時ばかりは無目的、無目標、行き当たりばったりが楽しいのであります。
敦賀の町、満喫しました。
最後に立ち寄ったのは小谷城戦国歴史資料館。
こちらも地元感、手作り感満載の資料館。
こちらでは情熱的な館長さんと意気投合。
館長さんはもちろん小谷城城主浅井長政びいき。
私は小田原北条家びいきで、
お互い秀吉にしてやられた者同士ということでとても楽しいお話ができました。
そんなこんなの1泊2日のボッチ旅、無事終了であります。
さあ、お盆も明けて夏期講習後半戦、
休養充分で挑むであります!
毎度、駄文にお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
また、お暇のおりにお付き合いいただけますようよろしくお願いいたします。