なぜ勉強するのか?
ブログでは塾と関係のないことのみを書いています。
本当にたいしたことは書かないので 御用とお急ぎでない方、
特に、お暇で気が向いた方にお読みいただければ幸いと書く次第です。
「何で勉強なんてしなきゃいけないの?」
仕事柄、たくさんの人からこの問いをぶつけられました。
勉強に疲れたとき、そう聞きたくなる気持ちはわかります。
本日はこの難問にお答えしましょう。
私の答えはこれです。
「ひもが切れるかもしれないバンジージャンプよりよくない?」
これが答えです。
まず、確認したいのですが
「何で勉強なんてしなきゃいけないの?」という問いは、
「1+1=何ですか」のような問いとは異質な問いだということです。
1+1の答えは2です。
3は惜しいけど間違い、400は相当ハズレた間違いで、
正解は唯一「2」だけです。他はすべて不正解です。
このように、「ひとつの問いに対して、ただひとつの正解がある」
というタイプの問いがあります。
学校では、この手の問いに答えさせられることが多いです。
ところが、世の中にはこれとは異質なタイプの問いがあります。
「正解のない問い」や、「正解がたくさんある問い」です。
例えば、「今日の晩ご飯、何にしよう?」という問いがそれです。
「私はカレーライスの気分ね」とおっしゃるなら、
「夕飯はカレーライス」が正解です。
ですが、カレーの気分ではない人には異なる正解があります。
「今夜は焼き魚って気分だな」という方は、
「晩ご飯に焼き魚」が正解です。
人の数だけ正解がありましょう。「正解がたくさんある問い」です。
「そうじゃないんだ、いつでも、どこでも、
誰にでもあてはまる唯一絶対の正解を知りたいんだ」
とおっしゃられてもそれは無理筋です。
考えてみてください、
「え~、全世界の英知を結集した結果、晩ご飯の正解は唐揚げと決まりました。他は不正解です。」
「今後、晩ご飯は全世界、全時代を通じて唐揚げに決定!違反者は厳罰に処されます!」
なんてあるわけありません。
そういう意味では「正解のない問い」です。
1+1=2のような、絶対普遍で唯一の正解なんてありません。
ということで、「問い」とは大きく二種類に分けられます。
1+1=2に類する型と「晩ご飯何にする?」の型です。
唯一の正解がある問いと、唯一の正解のない問いです。
「何で勉強なんてしなきゃいけないの?」は典型的な後者です。
正解は人の数だけありましょう。
同じ人でも、年齢や状況によって、
場合によってはその日の機嫌によっても正解は変わるという
そういった類いの問いです。
まあ、世の中の問いのたいていはこの類いです。
なら、唯一絶対の正解がないのだから論ずるに値しない、とするのは早計です。
正解がないからこそ、それを考えることに意味があります。
「何で勉強なんてしなきゃいけないの?」という問いをぶつけられたとき
私は唯一の正解を考えません。
考えるのはその質問をした人のことです。
何を思ってこの問いになったのか、そこを考え答えます。
答えるというより、一緒に考えるというのが適切です。
間が良ければ、いい機会なのでじっくり考えたりします。
話し合ううちにかなり珍しい結論に至ることもあります。
人の数だけ真実はあるなあと思う瞬間です。
一緒に考えた答えらしきものは幾通りもあり、互いに矛盾した結論であったりもします。
矛盾してもかまいません。そのときどきの刹那の最適解であればいいのです。
どんな結論であれ、話をした後に、
「まあ、やるべきこと(勉強)をやっちまいますか」
というところに落ち着けば、理由は人の数だけです。
世の中には、「1+1=2」のような唯一絶対の答えなんてものが、
存在しない「問い」もあるんだってことが、
わかってもらえるだけでも思考が深まったといえましょう。
「何で勉強なんてしなきゃいけないの?」に対しては、
「人の数だけ答えがある」というのが結論なのですが、
こんな話しを面白がってくれそうかな?と思ったときによくする話があります。
それが、「ひもが切れるかもしれないバンジージャンプよりよくない?」です。
毎度、本題までの前置きが長くてスミマセン。
本日のお題、「勉強とバンジージャンプ」のお話をさせていただきましょう。
「何で勉強なんてしなきゃいけないの?」は難題です。
難しい問題には、視点をずっと広く取るという手法があります。
大風呂敷を広げることでその問題を俯瞰し、
絶対の難問を相対化してしまうという作戦です。
大風呂敷を思い切り広げさせていただきましょう。
人は社会的動物といわれます。
人の間と書いて人間。言葉からして社会的です。
人間の作る社会は、すべからく大人と子供で構成されます。
その社会のフルメンバーとしての大人と、その準備期間たる子供です。
ここを区別しない社会というのは古今東西存在しないといって過言では無いでしょう。
子供が大人になるとき、何らかの儀式があります。
大人になるための通過儀礼、イニシエーションというヤツです。
これがない社会というのもまずありません、たいてい何かあります。
儀式ですから、内容とか意味とかはあまりありません。
なぜ?と問われても「そういう文化だから」と答えるほかありません。
例えば、職人さんの修業期間なんかがこれにあたりましょう。
修業中は理不尽なことが沢山あります。
親方が白といえば、黒いものでも白です。
一人前の職人さんが、その技術を習得した人という定義であれば、
この修行に意味はありましょうか?
答えは「無い」です。
理不尽に耐えた経験と、職人としての技倆、別問題です。
意味があるかと問われれば無い、
しかし、意味は無くとも通過儀礼を経験したものだけが、
その社会のフルメンバーとして認められる。
これが儀式、通過儀礼というものです。
これは洋の東西を問わず、あらゆる社会に存在する普遍的事実と申せましょう。
古今東西、様々な社会に様々な通過儀礼がありまして、その一例。
現在のバヌアツ共和国、南太平洋のとある島に伝わる、
子供が成人になるための通過儀礼です。
その島では、成人の儀式のため、村の広場に高い櫓(やぐら)を組みます。
植物の蔓(つる)の一方を成人の儀式に向かう若者の足首に縛ります。
もう一方を櫓のてっぺんに縛り付けます。
成人を迎えた若者は、その櫓の上から飛び降ります。
蔓の長さは櫓の高さより少し短いですから、地面に落ちる寸前に蔓にひきあげられれます。
そうです。
これが、バラエティ番組でおなじみの「バンジージャンプ」の起源です。
バンジージャンプはバヌアツに伝わる成人の儀式を安全なお遊びにしたものです。
さて、この儀式、現代のバンジージャンプと大きく異なるところがひとつあります。
この蔓、何年かに一度、切れるんです。
儀式の最中に、飛び降りたときに、ブチッとです。
切れたら大怪我です。いや、怪我では済まないこともあったでしょう。
そんな犠牲者が数年に一度必ず出ます。
なぜなら、この蔓、切れるまで使うルールなのです。
恐怖です。単に心理的恐怖ではありません。
「気合い」や「やる気」ではどうにもなりません。
実績ある危険に裏付けされた確かな恐怖です。
現代日本では考えられませんが、この島では長く続いた風習です。
この儀式に何の意味があるのかわかりません。
意味なんてないのかもしれません。
しかし、この恐怖を乗り越えたものだけが、この島でフルメンバーの大人として遇されます。
あえて、意味らしきものを考えれば、
この島の大人とは、すべからくこの恐怖を乗り越えた人ともいえます。
この、共感というか、連帯というか、矜持というか、
何かそんなようなものにはなっているのかもしれません。
そんなもののために数年にひとり犠牲者が出るというのが、
間尺に合った話しかというのは議論の余地がありますが、
ことは儀式です。
理屈があってやってるものではありません。
意味とか、価値とかって議論はハナから無駄です。
「そういうもんだ」と受け入れるか否かの二択です。
この頃のバヌアツに生まれなくて本当に良かった。
さて、現代の私たちの社会は、運の良いことに、大人になるに際して、
こんなロシアンルーレット的恐怖のつきまとう危険なバンジージャンプを強制されません。
私たちは実に幸運です。
私たちが、現代日本という、この時代の、この地に生まれついたのは何かの偶然です。選べません。
可能性としては、当時のバヌアツに生まれてバンジーを強制されるってのもなくはなかったのです。
まずは、この幸せをかみしめたいところです。
では、私たちの現代日本社会の大人になるための通過儀礼は何でしょう?
バンジーはありませんが、現代日本も人間の社会である以上、
それに代わる何かがあるはずです。
好むと好まざるとに関わらず現代日本の全ての大人が経験したもの。
それに意味があるのかないのかを問うことをせず受け入れるしかないもの。
そうです。それが「勉強」です。
カッコ良く優秀にできた人も、大変に苦労した人もいらっしゃいましょうが、それは些事。
ともかくも「勉強」をして、大人になります。
「勉強」とは現代日本の、大人になるための通過儀礼と考えられましょう。
儀式の良いところは、「やればいい」というところです。
やったか、やらないかが大切。
バヌアツのバンジーも、
腹の据わったところをみせて、カッコ良く決め、賞賛された人もいたでしょう。
恐怖におののき醜態をさらし、情けないジャンプで笑われた人もいたでしょう。
しかし、そんなことは一時のことです。
大切なのは飛んだかどうか。
飛んでフルメンバーの大人になったかどうかです。
飛んだら大人、まだ飛んでいないのが子供。ここだけが問題なのです。
その人の真価は大人になって何をしたか、です。
どのように飛んだかではありません。
「勉強」は現代日本の「通過儀礼」です。
生まれたところがちがっていたら、危険度MAXのバンジーだったところを、
運良く「勉強」すればいいとなっているに過ぎません。
これをラッキーといわずなんといいましょうや?
しかも、勉強は、全てとはいいませんが、「面白い」ところもあるし、「役立つ」ところもあります。
少なくともこのバンジーよりはずっと「やる意味」があります。
勉強は大変かもしれません。でも、
「ひもが切れるかもしれないバンジージャンプよりよくない?」というのが
私が、面白がってくれそうかな?と思ったとき、ときどきする答えです。
いかがでしょう?
ちょっと気が楽になって、
「まあ、やるべきこと(勉強)をやっちまいますか」
という気持ちになっていただけたでしょうか?
毎度毎度、長文駄文に大切なお時間をいただき、ありがとうございます。
また、お暇な節によろしくお願いいたします。