ブログ

青森は大きい

ブログでは塾と関係のないことのみを書いています。

本当にたいしたことは書かないので 御用とお急ぎでない方、

特に、お暇で気が向いた方にお読みいただければ幸いと書く次第です。

 

お盆休みに青森県に行ってまいりましたというお話で、

いつもにもましてどうでもよいお話であります。

本格的にお暇なときにでも、お読みいただければこれ幸いと

書かせていただく次第であります。

本日もお気楽にお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

 

なぜ青森かと申しますと、

かねがね訪ねてみたいと思っていたところがあったからです。

 

八甲田山と三内丸山遺跡です。

八甲田山は、八甲田山雪中行軍遭難事件の足跡をたどってみたいというもので、

三内丸山遺跡は、最新の(というと何か妙ですが)縄文時代を知りたい、ということであります。

 

旅の目的をご覧いただいて、もうお気づきの方もいられようかと思いますが、

そうです、一人です。お付き合いいただける道連れなぞはございません。

気ままな一人旅、一泊二日の青森旅であります。

いいえ、ボッチ旅と呼ばないでください、寂しくなんてありません。慣れっこです。

「泣いてないってば」(裕木奈江)でありまして、

その点くれぐれもご心配ご無用でお願い申し上げる次第です。

 

便利なパックが旅行会社にはありまして、

新幹線とホテルとレンタカーがセットで通常の往復新幹線料金よりも安くなるという、

まことに素敵なプランを利用してお得にGOであります。

なにせ気楽な一人旅、細かいことはいいません。

レンタカーもホテルも空いていればどれでも即決OKです。

 

乗るたびに思いますが、新幹線は本当に便利です。

東京駅を出て3時間ちょっとで青森に着いちゃいます。

135号の大渋滞にはまって熱海から4時間かかって帰ってきたことを思い出すと、新幹線はすごいなあと改めて思ったりするわけであります。

普段と変わらない時間に起床してお昼には青森です。

営業最高速度時速320㎞を誇る東北新幹線、流石であります。

 

駅弁食べたり本を読んだり車窓を眺めたりしているうちにほどなく到着。

新青森駅でレンタカーを借りて一路八甲田山へ向かいます。

 

「八甲田山雪中行軍遭難事件」をご存じでしょうか?

新田次郎の「八甲田山死の彷徨」それを原作とする映画「八甲田山」

それらの題材となった遭難事件です。

 

明治35年、日露戦争を間近に控えた陸軍は極寒地訓練の一環として、

冬の八甲田山踏破を目指した軍事演習をします。

参加210名中199名がなくなってしまう未曽有の山岳遭難事故です。

 

私は、映画「八甲田山」が大好きで、何度も見返してしまう映画の一つです。

私の好きな橋本忍が脚本、橋本プロ制作の映画です。

主演は高倉健、北大路欣也。脇を固める加山雄三、丹波哲郎、三國連太郎、小林桂樹等々と実に豪華。

撮影は巨匠木村大作。CGのない時代の映画です。

カメラマンの腕一本で八甲田の冬の厳しさ、雪の恐ろしさ、翻って夏の八甲田の美しさを映します。

劇中、北大路欣也が叫ぶ「天は我々を見放した」は、当時流行語にもなったという名場面であります。

どんなに暑い夏であっても、観れば涼しさを通り越して寒さを感じること請け合いという映画。おすすめです。

 

八甲田山雪中行軍は二つの部隊が参加しています。

高倉健率いる弘前歩兵第三十一連隊と北大路欣也率いる青森歩兵第五連隊です。

 

雪の恐ろしさを知り十分準備をした高倉健の弘前三十一連隊は無事踏破を果たし、

冬の八甲田を甘くみて準備が不十分だった北大路欣也の青森五連隊は多くの犠牲者を出してしまいました。

 

今日は悲劇の青森五連隊の足跡をたどってみようとやってきました。

まずは八甲田山の麓にある「八甲田山雪中行軍遭難資料館」を訪問です。

 

資料館の方々はとても親切で私の質問に丁寧に答えていただけました。

しかも、私のような映画を見てこちらの資料館に来る人が多いのでしょう、

映画の配役ストーリーに合わせて、史実と同じところ相違するところを

テキパキとお話ししていただけました。

 

「青森五連隊がたどったルートを車で辿ってみたいと思ってきたんです」と言うと、

これまた懇切丁寧に見るべきポイントを整理して教えていただけました。

 

「後藤房之助伍長の像という大きな銅像がありますからここは行ったほうがいいですよ」

「最初に救助された伍長さんの銅像で、後藤伍長が発見された場所にあります。是非。」

 

資料館を出て教わった通りに青森五連隊の足跡をたどります。

夏、車移動で行ってみれば30分とかからない範囲です。

どちらかといえばなだらかな山で恐ろしさのかけらもありません。

穏やかな北国の夏の山です。

 

私は青森は何度か来ていますが、いずれも夏、穏やかな夏の青森しか知りません。

映画でも描かれていたように冬は全く違った厳しい青森になるのでしょう。

 

資料館でおすすめされた後藤伍長の像に着きました。

小さな峠の上に立つ後藤伍長の像、

そこからはついに青森五連隊がたどり着けなかった目的地田代温泉がわずかな距離に見下ろせます。

振り返ると青森の町が、その向こうには陸奥湾の海が見えます。

痛ましい事故が起こった場所とは思えない、眺めの良い気持ちのいい峠でした。

駐車場から数百メートル山歩きをしなければならない後藤伍長の像には、

平日ということもあって私のほかは誰もいません。

景色を眺め想像します。

明治35年の冬、青森五連隊が遭難した日、後藤伍長が救助されたときはどんな景色だったのだろうと、そんなことを考えつつベンチに座って一休み。

 

すると、峠を登ってくる人がいます。

「こんにちわ」と笑顔で挨拶をしてくれたのは、ボランティアガイドの広瀬さんでした。

「車が駐車場に止まってるのを見て上がってきたんですよ、どちらか来られました?」

「神奈川県です。さっき着いたところなんですよ」

「観光ですか?これからどちらに行かれますか?」

「いやあ、ここに来たかったんです。」と雪中行軍を辿る旅だとお話しすると、

広瀬さん「ああ、そうですか」とベンチに腰かけ、

大変長い時間、私とのお話ににつきあってくださいました。

 

広瀬さんは、先ほどお寄りしてお話を伺った遭難資料館の元館長さんで、

現在はここ後藤伍長の像でボランティアガイドをされている方でした。

 

他にお客さんもいません。ゆっくりお話を伺うことができました。

雪中行軍のことについては勿論、元資料館館長さんですから当然よくご存じで、

あまり公にはできないんだけどね、なんてお話も交えつつ、詳しく楽しく教えていただきました。

 

やや複雑な青森県の成立の経緯、南部と津軽のあれやこれやについてもいろいろ教えてくれました。

 

戦国時代に始まる南部と津軽の対立、ポイントは戊辰戦争であり、

奥羽越列藩同盟参加と脱退が南部と津軽はもちろん、その後の東北・北陸の全体に大きく影響していると教えてくれました。

「だから東北・北陸で師団が置かれたのはみんな新政府方でしょ」

「ああ、そこにつながるんですね」と、もう私は広瀬先生の生徒のようです。

 

広瀬さんは地元のお生まれお育ちで、

「小学校のときは遠足でここ(後藤伍長の像)に来るのが定番だったんですよ」とおっしゃいました。

 

雪中行軍が地域のシンボルで、私たちにとっての小田原城とか尊徳記念館とかそういう存在なんだろうなと思いました。

 

その後、雪中行軍関連は戦争賛美につながるのではと敬遠され、だんだんと寂れてきてしまったとおっっしゃっていました。

「小学生が遠足で来なくなっちゃったのは寂しいですよ」と。

 

戦争賛美になるのかどうかは私にはわかりませんが、

地元で育ち、館長さんを務められて、今なおボランティアガイドをされている広瀬さんの語る歴史には迫力があります。

 

「大きな銅像でしょ。戦時中の金属供出のときは地域みんなで守ったそうですよ、陸軍のコネも使ってね」

「進駐軍が来た時も、山道の草をわざと刈らないで登りにくくして内緒にしてたんですよ。見つかったら軍国主義的だっていって壊されしまいますからね」

 

広瀬さんのお話には地域の人ならではの熱を感じます。

ネットや本では、知ることはできても感じることはできない面白いお話をたくさん伺うことができました。

 

この日は、もう少し足を延ばして奥入瀬、十和田湖へも行くつもりでしたが、ここが気ままな一人旅に良いところ。

そこはまたの機会ににして、日が傾くまでゆっくりとお話を伺いました。

 

翌日は三内丸山遺跡。

こちらは世界遺産にもなって今が旬の遺跡です。

お客さんもたくさん、展示も至れり尽くせりでした。

 

縄文時代は移住生活、弥生時代になってから定住生活というのがかつての常識、昭和の常識でしたが、

平成4年に始まる三内丸山遺跡発掘の功績もあり、現在では縄文時代すでに大きな集落があり定住していたとなっています。

昭和の常識が令和では通用しない、という事態は古代史界隈でも同じく起こっているのであります。

過去の知識にあぐらをかかずに日々勉強であります。

三内丸山遺跡といえば、ご覧になったことがある方もいらっしゃると思いますが、

写真左の「大型掘立柱建物跡」がそのシンボルであります。

高さ約15m、4階建ての学校の校舎くらいの高さです。

ガンダム世代の皆様にはガンタンクくらいの大きさと申し上げればその大きさがお分かりいただけましょうか。

まあ、大きいです。

 

何に使われたものなのかはわかっていません。

宗教的儀式の神殿であったとか、戦いのための物見櫓であったとか、

芸術的なモニュメントだったのではないかなど諸説ありです。

 

古代史は謎なところが多いのですが、その分空想できる余地があるのがよいところ。

司馬遼太郎は「街道をゆく」北のまほろば編で、津軽海峡を渡る船のための灯台だったのではないかと考えていました。

正解がどれだったはともかく、司馬ファンの私は、灯台だった説に司馬遼太郎の歴史小説の世界を感じてしまうわけであります。

 

今が旬、世界遺産登録の三内丸山遺跡では他にもたくさん勉強させていただきましたが、

私が初めて知って最も驚いたのは、この大型掘立柱建物に使われた木の種類でした。

 

クイズです。これ、何の木でしょう?

 

最大直径1m、周囲3メートル、高さ15mの丸太ん棒です。

スギかヒノキだと思っていましたが、これクリの木だそうです。

クリがこんなに大きくなるとは知りませんでした。

 

クリの木といえば、♪大きなクリの木の下で~♪というかわいい歌が思い出されますが、

大きすぎです。「大きな」にもほどがあります。全然かわいくありません。

 

発掘の時に柱に使われていたであろうクリの木の一部が出土したということなので間違いありません。

 

柱がたっていた跡の大きさから高さ15mくらいであっただろうと推測し、クリの木を使って復元したそうです。

 

私は思わず聞いてしまいました。

「クリがこんなに大きくなる木だとは知りませんでした。この復元もクリの木なんですか?」

すると

「そうなんですよ。日本にも直径がこれくらいのクリの木はあったんですが、(この事実にまずビックリ)曲がっちゃてるんですよね。

まっすぐなのがなかったんで、これはシベリアから取り寄せたんです(とさらにビックリ)」とのこと。

 

驚きエピソードでした。クリの木、侮れませんな。

 

三内丸山遺跡は世界遺産ではありますが、「北海道・北東北縄文遺跡群」としてその指定を受けた広範囲な遺跡群の中心的な遺跡の一つであります。

それはそうでありましょう。縄文時代に県境も国境もありません。

交易圏は北はシベリア、南は本州中部地方に及びます。

 

縄文人、やりますなあ。

徒歩と丸木舟だけでこの広大な交易圏。

実に気宇壮大な話であります。

 

この旅は、八甲田の山々にせよ縄文人の交易圏にせよ、スケールの大きなものに触れられた旅でした。

 

帰りがけに立ち寄った青森県立美術館。

この旅の締めくくりにこれまたスケールの大きなものを見ました。

とってもでかいシャガールです。

バレエの舞台背景に描かれたものだそうです。

でかい。

青森犬(「あおもりけん」と読むそうです)

こちらの美術館のシンボル的作品だそうです。

でかい。

 

スケールの大きなあれやこれやと出会えた良い旅でありました。

 

毎度、駄文にお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

また、お暇のおりにお付き合いいただけますようよろしくお願いいたします。

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