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立川談志

ブログでは塾と関係のないことのみを書いています。

本当にたいしたことは書かないので 御用とお急ぎでない方、

特に、お暇で気が向いた方にお読みいただければ幸いと書く次第です。

 

「立川談志」読めますでしょうか?

「たてかわ」と読みます。「たちかわ」ではありません。

「たてかわだんし」落語家です。

 

以前、このブログで落語が好きだ、というお話をさせていただいたのですが、

「立川談志」私の大好きな落語家です。現代落語界のビッグスターです。いや、でした。

今月21日が命日、当年で亡くなって10年になります。

 

「今んとこ、落語にあまり興味ないんだよねえ」という方も

人生は長いです。これから何かのひょうしに、ご興味をもたれる日が来るやもしれません。

そして、万が一そんなことになってしまったら、

好悪、賛否が激しい人物ですが、立川談志は避けて通れないということになりましょう。

 

毎度私の駄文にお付き合いいただけているのも何かのご縁。

本日は「私の好きな立川談志」の一席に、どうぞお付き合いください。

 

 

まあ、ひとくちに落語家さんと申しましてもたくさんおられまして。

端的に面白い人も、あまり面白くない(と今の私には思えてしまう)人もいます。

間口の広い、わかりやすく楽しい人もいれば、

敷居が高く、わかりにくいけど好きになったらたまらないって人もいます。

 

これは、食べ物の好みみたいなものですから、

どなたを良いと思うかは、ひとえに皆さんのお好み次第。

いろいろな落語家さんがおりますから、

必ずお好みの落語家さんを見つけられるってのが良いところでもあります。

 

硬軟取り混ぜ、様々いらっしゃいますが、

何かの巡り合わせで、「じゃあひとつ、落語ってのを聴いてみようかねえ」という方には、

やはり、間口の広い、わかりやすく楽しい落語から聴いていただくのがよろしいかと思います。

 

落語芸術協会会長にして「笑点」司会の春風亭昇太、

NHK「ためしてガッテン」でお馴染みの立川志の輔などは、初めての方にもお薦めです。

老若男女どなたが聴かれても楽しんでいただけると思います。

予備知識なんてまったくいりません。

ただ聴いていただければ楽しんでいただけること請け合い。

機会があったら是非お薦めします。

 

初めての方へのお薦めということでいえば、

立川談志はあまり初めての方にはお薦めできない落語家です。

とても個性的でアクが強いので、楽しむには慣れが必要です。

談志には徐々に慣れていただくのがよいかと思います。

 

談志のどこが個性的なのかと申しますと、

談志は他の落語家さんとちがって、完成品を提供しようとしません。

これが困ったことろ。

おなじみのお笑い、お客さんが期待する「いつものあれ」をやってくれないのです。

 

談志は、常に現状に満足しない、進化し続けた落語家でした。

 

どうしたらより良い落語ができるかを生涯考えていました。

考えるのは落語家の皆さんされていることですが、談志はそれを隠しません。

むしろ積極的にその苦悩を語り、演じます。

完成形のベストではなく、今より、よりベターを求めて落語と格闘し、変化し続けました。

これが談志の個性です。

 

そういうわけで、談志の落語は振れ幅が大きいです。

クセの強い料理が、味わう人を選ぶところがあるように、

激辛料理が好きという人も、辛さの加減は体調にもよるように、

談志の落語は聞き手にも相応の準備を求めるところがあります。

手間のかかる芸人さんです。

そのぶん、好きになったらたまらない魅力があるのですが、

まあその辺が、談志を初めての方にお薦めしない理由であります。

 

全くの私論なのですが、私は談志の落語を三期に分けます。

 

第一期は「伝統を現代に」と言っていた初期です。

誰よりも上手に古典落語を演じ、早熟の天才といわれます。

 

第二期は「業の肯定」の中期です。

落語界のあらゆるタブーに挑みました。こちらは後ほどゆっくり。

 

第三期は「イリュージョン落語」の晩期です。

孤高の高みを目指します。こちらはまたの機会に。

 

談志は進化し続けた落語家でした。

 

私は談志好きなのでこれを進化と考え、まるごと楽しみますが、

例えば、第一期の談志が好きな方のなかには、

第二期以降の談志を「ピークを過ぎた」と評される方もおられます。

 

また反対に、第三期「イリュージョン落語」こそが談志の真髄と考えられる方は、

第一期、第二期は大いなる助走の時期だと捉える方もおられます。

 

ちょっとカッコ良すぎる例えになってしまいますが、

画家のパブロ・ピカソみたいなものです。

 

ピカソも「古典様式の絵」でその手腕が評価され画家となました。

やがて独創的な「青の時代」に入り独特な世界を展開し、

集大成の「キュビズム」に至ります。

よく似ていると思います。

 

ピカソの「キュビズム」ほど、談志の「イリュージョン落語」が評価されていないのは残念ですが、

どちらも芸術家、芸人。芸に生きた人だったと、私に区別はありません。

 

さて、私が、そんな立川談志に傾倒するきっかけとなったのは、

彼のこの言葉でした。

「落語とは業の肯定である」です。

 

私はこの言葉で「落語ってすごいな」と思いました。

 

「業」(ごう)というのは仏教の言葉で「カルマ」のことですが、

そんな難しいことではありません。

 

談志は「人間の業」をこう解釈します。

「勤勉であるべし、善良であるべしは、わかっちゃいるけど、難しいよね」ってことです。

これが談志のいう業です。

「きれいごとより先に、愚かさ、狡(ずる)さ、未練がましさがある」

これらはみな逃れられない人間の業だと、談志はいいます。

そしてその業を「これでいいのだ」と、肯定するのが落語だと。

 

なるほど、落語の中には、愚かな人、狡い人、未練がましい人がたくさん出てきます。

彼らが心を入れ替えて立派な人になりました、なんて落語はありません。

彼らはみな、本人たちは大真面目なのですが、傍から見れば、愚かで、狡く、未練がましいままです。

それをそのままに語り、聴き、笑うことで自分達の業を肯定します。

「そういうもんだよね」という共感です。

 

談志はこうも言いました。

「落語ってのはね、忠臣蔵で討ち入った四十七士を語らないんだ。

討ち入らないで逃げちゃった、残りの赤穂浪士二百五十三人がどう生きたかを語るんだ」と。

これほど鮮やかに、「落語とは」を語った言葉を私は知りません。

 

赤穂浪士もお古くなってしまいましたから、あえて現代語訳をさせていただけば、

「落語はアンパンマンを語らず、

バイキンマンがどんな気持ちで悪いことをしちゃうのかを語るのだ」ともなりましょうか。

 

「アンパンマンみたいに成るんですよ」と言われて、成れればいいです。

成れればいいですが、成れない人もおりましょう。

アンパンマンを立派だと思いつつも、そうなれなかった人を語り、

そうすることが、救いになるのが落語だと。

 

そもそも全員がアンパンマンに成ってしまう世の中って、あり得ないですよね。

まず、バイキンマンがいて、彼が悪いことをしてくれるからこそ、

アンパンマンは安心して(?)正義のパンチをお見舞いできるのです。

 

もし、全員アンパンマンに成ってしまったら、どうなるでしょうか?

古株のベテランアンパンマンたちがその力を持て余し、

改心して最近アンパンマンになったばかりの元バイキンマンの新人アンパンマンを捕まえ、

過去の罪状や、これから悪事を起こすかもしれない危険性を根拠に、

ア~ンパ~ンチするのでしょうか?

それはもはや、正義のパンチではなく、行き過ぎた暴力のデストピアでしかありません。

 

談志は口が悪く、性格もいじわるなので、この辺の矛盾をあげつらいます。

しかも嬉々として。「王様は裸だ」と言ってしまう少年のようにです。

まあ、そんな談志の言いようを喜んで聴いているのも私たち談志ファンなのですが。

 

殊更言わなくてもいいことまで言ってしまうので、一部良識派から嫌われてしまうことも多いのですが、

談志は本質的には「優しい」のです。

 

誰にでもいくばくか残る、バイキンマン的なところ、

今日もアンパンマンになれなかった悔いを、落語は救います。

それは、自分の弱さを認めて笑ってしまう強さでもあります。

ダメなところを優しく肯定することで、庶民はしぶとく力強く生きていくんだと。

談志はそう言いました。

それが「落語は業の肯定である」です。

 

普通、落語家さんはこんなこと言いません。

談志だけが言いました。

これは、マジシャンが種明かしをしながらマジックを披露するようなものです。

ある種のタブーです。

 

談志の最良のライバルだった古今亭志ん朝は、対照的に、決して芸談をしない人でした。

スタジオジブリの映画、「平成狸合戦ぽんぽこ」出演の折、

インタビューで「落語の面白さって何ですか?」と問われ

「タヌキやキツネがしゃべるとこです」と軽く煙に巻いていました。

 

そんな志ん朝を「粋」である、

すべてを語ってしまう談志は「野暮」であると非難する向きもありますが、

野暮を承知で言わずにいられないのも談志の魅力です。

それだけ落語が好きだったんだと思います。

 

「落語とは業の肯定である」

すごい言葉だなと思いました。

この言葉は私が落語に益々ハマっていくきっかけとなりました。

 

「業の肯定」が私の心に刺さったのには、

もう一つの理由がありました。

私の仕事のことです。

 

私の仕事は、ご案内のように、人様のお勉強のお手伝いをすることです。

勉強して立派な大人になっていただくお手伝いです。

 

学生の頃の私は、この仕事をしたいという気持ちは充分なのですが、

果たして「自分にその資格があるのだろうか?」と自問していました。

この言葉に出会った若かりし頃、私が抱えていた大問題でした。

 

仮にも「先生」なんて呼んでいただく仕事です。

立派なアンパンマンさんがふさわしいでしょう。

 

しかるにその頃の(今もあまり変わりませんが)私はどうだったか?

ちゃんとしなければとの思いとは裏腹に、どう考えても、

良くいって8:2、下手すると9:1でバイキンマン寄りの人間です。

 

「落語とは業の肯定である」は私を勇気づけてくれました。

 

勤勉、善良は誰もが目指すところです。

ですが、いつでも、誰でも、すぐに、完璧に、その要望に応えられるわけではありません。

勤勉、善良であらねばとは思いつつも上手くいかないことも多々ありましょう。

 

そんなときには「勤勉であれ、善良であれ」即ち「ちゃんとやれ」と叱咤するのが本道でしょう。

「ちゃんとやって、私のようになりなさい」と。

学校も教科書も周りの大人も、立派な人が、たいていそう叱咤してくれます。

 

でも、それでも、上手くいかないときはあります。

そんなときこそ、

「いやあ、気持ちわかるよ。俺もそうだもん」とウソなく正直な共感をし、

「でも、まあ、あれだよ、できることから、ぼちぼちやってこうよ、手伝うから」と背中を押す。

そんな人がいてもいいんじゃないかなと。

 

それなら自分にもできる。

いや、むしろバイキンマンの親分のような青年であるところの、この私の出番ではないか。

 

曲解のうえの暴論だったかもしれません。

若気の至り、傲岸不遜の極みではありますが、

談志の「業の肯定」に、そんな風に励まされたように思いました。

 

「落語とは業の肯定である」

談志の残した実に滋味深い言葉です。

 

談志はその後に「イリュージョン落語」というものを提唱します。

最終進化形で、絶品ではあるのですが、

激辛料理と申しましょうか、キツいお酒のようなものなので取り扱い注意の危険な代物です。

こちらの方は、またの機会をいただけたときのお楽しみとさせていただこうと思います。

 

もうすぐご命日、家元勝手居士のご冥福をお祈りして。

 

毎度毎度、私の駄文にお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

また、お暇の折りによろしくお願い申し上げます。

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