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将来の希望

ブログでは塾と関係のないことのみを書いています。

本当にたいしたことは書かないので 御用とお急ぎでない方、

特に、お暇で気が向いた方にお読みいただければ幸いと書く次第です。

 

とあるスーパーでハチミツを売っていました。

1種類しか置いていなかったのですが、3種類に増やしました。

売り上げが伸びました。

 

お客さんは、自分の好みに合ったハチミツが選べるようになりました。

1種類のみで選択の余地がなかったときより選択肢が増え幸せです。

お客さんも幸せ、お店も売り上げアップで幸せ。

流行りの言葉で「Win・Win」ってやつです。

 

このお店、これはよかったと、今度はさらにハチミツを8種類に増やしました。

売り上げがさらに伸びました。

 

1種類から3種類に増やしたことがよい結果になったので

3種類から8種類に増やせばもっとよい結果になるのは当然。

売り上げはさらにアップしました。

するにはしました。

アップするにはしましたが、1種類から3種類のときほどではありません。

期待したほどの伸びではありません。

 

あれ?ちょっとおかしいな?と思いつつも

「お客さんの選択肢が増えることはよいこと」との信念のもと

こんどは思い切って32種類に増やしました。

 

お店はコストがかかり痛手ではありましたが、

「お客さんにとってよかれ」がすでにドグマ。

思い切って32種類です。

 

結果はいかに?

売り上げは伸びないどころか、激減。

1種類の頃に戻ってしまいました。

コストをかけた分、お店は赤字になりました。

 

1種類から3種類に増えたとき、お客さんは喜びました。

なのに、32種類になったとき喜ばれませんでした。

何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」です。

やり過ぎは良くありません。

 

何かの本で読んだ話しです。だいぶ前なので原典不祥でスミマセン。

その本では、この現象をこう解説していました。

 

選択の余地のない状態から、多くの選択が出来るようになると、より自分に合ったものが選べるのでお客さんは喜びます。

しかし、あまりに選択肢が多すぎると「機会損失」という心理が働き購入に消極的になるというのです。

 

例えば、32種類のハチミツの中から、一番気に入った「A」と、二番目に気に入った「B」と、たまにはこれもアリかなと思える「C」と「D」があったとします。

ハチミツなんて一つ買えば十分。二つは必要ないとします。お客さんは一つを選ばなければなりません。

まあ、一番気に入ったので「A」を手に取ったとしましょう。

 

多くの選択肢の中から最良のハチミツを選びましたから、幸せなはずです。

喜んでさっさと買えばよさそうなものですが、お客さん買うのをためらいます。

 

そこに「機会損失」の心理が働いているというのです。

 

「A」を買うことは、即ち「B」「C」「D」を買わないということです。

「A」を買えば「A」のハチミツは楽しめますが、

それは同時に「B」や「C」や「D」のハチミツを楽しむ機会を自ら放棄することでもあるのです。

32種類の中から選んだ2番目、3番目のお気に入りです。捨てがたいです。

 

気持ち、わかります。

そうなると「今日買わなくてもいいかな、今度買うことにしよう。」と先送りしたりして。

そんなことが容易に想像できます。

結局、お店の売り上げは1種類の頃と変わらなくなる、というのもむべなるかなです。

 

そんなわけで、経済学では、お客さんにとって選択肢が多いことは、ある程度まではよいことですが、

多すぎると逆に売り上げアップにつながらない。というお話。

 

納得です。とてもよくわかります。

よかれと思って32種類用意してしまうお店の気持ちもわかります。

32種類もあったら、それがために選べないお客さんの気持ちもわかります。

 

商売とはかくも難しいというお話でした。

 

長々お付き合いありがとうございました。

 

ここからが今日の本題です。

 

私はこの話を読んで、

「将来の希望は?」と問われて、困った顔をする今の子供達のことを思いました。

 

大人は子供達の将来について、より広い選択肢の中からベストな選択をして欲しいと願います。

選択肢が少なく、不本意な人生を過ごさざるを得ないなんてことにならないように、

子供の将来の可能性を広げることに努めます。

「可能性が広がる」は善で、「可能性を狭める」は悪です。

 

子供の将来について、親は言います。

「何も押しつけはしません。やりたいことをさせてあげたいです」と。

 

かつては、農業や家業の商売を継ぐしかないとか、お嫁さんになるしかないとか、兵隊になるしかないとか、

選択肢のごく少ない時代がありました。

そんなときに「やりたいことをしてもいいよ」は福音だったことでしょう。

ハチミツの話しで言えば1種類が3種類になったあたりです。

嬉しかったことでしょう。

 

ですが、「子供達の可能性を広げる」が、社会全体で共有するテーゼとなった現在、

「やりたいことをしてもいいよ」は、それがない人にプレッシャーをかけます。

 

そんな人たちには「やりたいことをしてもいいよ」は、こう聞こえるのではないでしょうか。

 

「隣の店には64種類あるけどどう?検討したのか?」とか

「ネットを使えば世界中のハチミツが食べられるのに、試さないなんて勿体ないなあ」とか

「決められないなんて真面目に考えてるのか?やる気あるのか?」と

 

で、仕方なく暫定一位を決めると、

「それが本当にやりたいことなのか?」なんて詰められる。

もうパニックです。

 

「自分の将来の目標はこれです。」と言い切れない人にとっては、厳しい時代です。

 

いや、勿論、あっていいと思うんですよ、将来の希望。

 

私も、やりたいことを職業にすることができた幸運な大人の端くれです、

「やりたいことをする」は総論賛成です。

目標があったほうが頑張れるということも知っていますし、知って欲しいとも思っています。

 

でも、すべての子供にそれ求めるとか、すべての時点で明快な回答を求めるとか、

将来の目標が「ある」と偉くて「ない」と劣っているとなると、それはやり過ぎです。

 

無気力で無関心で「将来の希望は特にない」と言っているとは限りません。

第二希望、第三希望が捨てられないからかもしれませんし、

先のことは先になって考えるという大人な考えかもしれません。

「無理に判断を急がないという判断」もときには有効です。

 

ちょっと余談になりますが

 

ご近所に、私の大好きなラーメン屋さんがあります。

(栢山でラーメンといえばここという、あの店かな?と思われたおそらくその店のことですが)

 

「味噌ラーメン」が看板メニューで、行けば毎度、味噌ラーメンを食べています。

お腹の減り具合で、大盛りにするとか餃子をつけるとか、僅かな選択の余地はありますが、

私のオーダーは決まっています。

「味噌ラーメン」一択です。

 

もう、「味噌ラーメンが食べたい」ではなく、「あの店の味噌」が食べたいとなります。

 

子供の頃からずっと通っていますから、

そのお店には醤油ラーメン、塩ラーメンもあることは知っています。

食べたこともあるにはあります。

醤油も塩も美味しいです。

 

しかし、私の数少ない記憶にあるのは

「醤油や塩も美味しいね」ということより

美味しいとは思いつつも

「やっぱり味噌にしておけばよかったかも…」という若干の後悔の念です。

 

「何かを選ぶ」ということが「何かを選べない」ということでもある。

その苦しみ、つらさ、よくわかります。

 

そんなこんなで、私のよく行くお店は、かなりの確率でお店とメニューがほぼセットです。

「もっといろいろ楽しめばいいのに」と近しい人から笑われます。

 

そのお店で一番好きなものはどれか?という妙に真面目な探究心から、

また、無理に冒険したメニューで後悔したくないという

私のチキンな一面が顔を出し、結果、笑われながらも毎度同じものを食べます。

 

一回の食事でもこんな気持ちになる人(私ですが)もいるのです。

「将来の希望は?」なんて大きな問いで、すべての子供に明快な回答を求めるのは無理ってものです。

 

私は、「将来の希望は?」と問われて、困った顔をする人に、むしろ良心すら感じることがあります。

「真面目に考えたらそうなるよな」と

「冷静にしっかり考えているからこその未定なんだな」と。

 

繰り返しますが、「将来の希望がある」のは結構なこと。「夢に向かって頑張る」も良いことです。

全力で応援します。

 

ただ、「将来の希望は未定」と聞いて、即座に落胆するのは早計です。

至って真面目に考えたからこその未定かもしれません。

 

周囲の大人の皆さん(私も含めて)には、

将来未定は「将来について共に考えるよい機会」ととらえて頂けるといいのではと思う次第です。

 

毎度お付き合いありがとうございます。

また、お暇のおりにお願いいたします。

柏木塾
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